残念ながら、次の展開は「火垂の墓」でもなければ「ビルマの竪琴」でもない(楽しいツッコミをありがとう>諸氏)。それどころか、自転車で遭難しかかったことや、方向音痴のベルギー人との出会い、たどりついた電気の通っていない村の話などは、続きの話に全く関係がなかったりする。すみません。
問題はそのバガンの帰りの空港での話だ。
空港は、更地を有刺鉄線で囲んだ中に小さい小屋がぽつんと立っただけの、さびれた施設だった。 手書きの、紙切れのよ〜なボーディングパスをもらった私は、敷地をでて、道路をはさんだ小さい店で水を買い、店先の日陰のないテーブルで暇つぶし。 店は、家族でやってそうな、小さいたばこやみたいな店で、裏には家があり、赤い土のひろがる、どこまでが道路でどこまでが庭なのかよくわからない空き地を、にわとりがばさばさ跳ねていた。暑かった。
その庭からちょうどあたくしが休んでいる店先のテーブルのあるあたりを、ちょっと足をひきずるおじいさんが、ゆっくりいったりきたり歩いていた。この店の家族の人だろう。 おじいさんは、ふと、あたくしに目をとめると、言った。
「日本の方ですか?」
アジアには日本語を流ちょうに話すお年寄りがたくさんいる。話せることを伏せている人や使いたがらない人が多いようだが、何度か旅先でこんな風に話しかけられたことは過去にもあった。そのたびに、日本が占領していた事実をつきつけられるような気がして、私はいつも妙に神経質になる。
だからこのおじいさんが、なまりのない、流ちょうな日本語で話しかけてきたときも、ちょっと狼狽した。
ああ、何か話さなきゃと思うあまり、実にわかりきった、情けないことを私は聞いた。
日本語はどちらで?
「戦争でね。覚えました。日本軍で、通信の仕事をしていたんです」
・・・そうですか・・・
話をどうつなげていいものか、言葉をさがしているうちに、また馬鹿なことを私は聞いた。
日本人は、ずいぶん・・・ひどいことをしたんでしょうか・・・
「そうですね〜・・・もの盗んだり、殴ったり、強姦とかですね。ひどかったですよ」
返す言葉もなかった
「戦争だから、仕方ない」
そう答えるおじいさんの表情は、深いしわや日焼けで読み取れなかった。
アウシュビッツに行き、 ヒロシマ、ナガサキに行き、サイゴン、プノンペンに行き ナチスに暴力をふるわれた人の話 ナガサキで被爆した人の話 ポルポト兵に家族を殺された人の話
多くの負の遺産をみて、話も自分の耳できいてきた。
だけど、私が泣いたのは、バガンでのこのおじいさんと話をしたとき、これが最初で最後である。
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